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設計業務は仙台市及び周辺の市町村が主な対象です。
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宮城県仙台市について
宮城県の仙台市は東北の政治・経済・文化をリードする政令指定都市です。人口は100万人を超え、第三次産業を中心とした文化都市として発展を続けています。仙台市は青葉区・宮城野区・若林区・太白区・泉区の五つの区から形成され、中心部の青葉区にはJR東北本線の仙台駅から西側に中心市街地が展開しています。青葉区には宮城県庁や仙台市役所の他、国の出先機関が集まる合同庁舎があり、行政を担っています。青葉区の中央・本町・一番町・国分町は全国展開する企業の支店も集まり、東北の経済活動を牽引します。独立行政法人の東北大学は青葉区に事務局を置き、世界的な研究で知られる金属材料研究所・電気通信研究所は青葉区片平に居を構えます。東北大学の1・2年生が学ぶ川内キャンパスは青葉区に位置しますが、工学部など主な学部は行政区が異なり、太白区八木山が所在地です。青葉区には宮城県美術館や仙台市博物館があり、文化活動の拠点となっています。仙台市天文台は青葉区西部の錦ケ丘に移転し、子供たちの宇宙への興味は尽きません。定禅寺通りの仙台メディアテークは建築家・伊東豊雄が設計した仙台市立の図書館で、樹木をイメージした複合柱で構成する開放的な空間が特徴です。太白区は秋保温泉や八木山方面から太平洋沿岸までの広い区域を有します。アスト長町は旧国鉄の跡地を利用してつくられ、太白区の新たな街づくりに貢献しています。仙台市立病院も移転して立地し大型店舗が建設されるなど、仙台市西部の賑わいを復活させているのです。宮城野区のJR東北本線の仙台駅東側は以前は古い商店街が続いている地区でしたが、土地区画整理により新たな街に変貌しています。プロ野球楽天球団の本拠地球場はJR東北本線仙台駅の東側に位置し、徒歩圏内にあります。宮城野区の北部には鶴ケ谷や南光台などの住宅街が広がり、人口の多い地域です。若林区は仙台市営地下鉄東西線の建設により生まれ変わり、活気付いています。泉区は仙台市営地下鉄南北線の北の終着駅となる泉中央駅を中心に、緑豊かな自然の中に住宅地が広がります。泉中央駅の南側にはペデストリアンデッキが通じるベガルタ仙台ホームのサッカースタジアムがあります。泉区のシンボルは区の西部に聳える泉が岳です。標高は1,200m程と比較的低く、登りやすい山として知られていますが、軽装は危険です。地図や衣料、食料などを準備し、計画的な登山が必要です。春以降はクマが出没するので、ラジオなどの持参も必要となります。泉が岳を水源とする七北田川が区内を縦断し、太平洋にそそいでいます。
宮城県の仙台市は戦国武将、伊達政宗が領地を治めるために居を定めたのが街の始まりです。江戸時代は青葉城を中心として街づくりが行われ、現代の市街地の骨格がつくられました。仙台の街は青葉城の大手門から西へ延びる道(現在の青葉通り)と南北に通る奥州街道が交わる芭蕉の辻を基点として町割りが造られました。中心部の大町と国分町は藩内一の賑わいを見せ、現代では東北一の歓楽街へと変貌を遂げました。明治維新により仙台市は宮城県の県庁所在地として位置づけられ,東北地方の中心地として中央政府の出先機関がつくられました。1,887年に旧制二高が、1,907年に東北帝国大学が設置され、学都仙台の基礎が形づくられました。仙台市には当時の帝国陸軍第二師団司令部が置かれ、日露戦争から太平洋戦争で活躍する帝国陸軍の最強部隊として、その名を轟かせました。太平洋戦争末期には仙台市の中心部が空襲で消失し、焼け野原となりました。戦後の仙台市は東西へ延びる3つの大きな通りを中心として街づくりが行われました。青葉通り・広瀬通り・定禅寺通りにはケヤキが植えられ、森の都を呼ばれる自然豊かな市街地を形成しています。1975年には東北自動車道が開通し、1982年には東北新幹線が開業するなど、首都圏や関西方面へ向かう交通手段が整いました。